
旅~浦上四番崩れ~
潜伏キリシタンが摘発、処刑されることを「崩れ(くずれ)」と呼ばれた。
浦上のキリシタンは表向き仏教徒であったが、張方や水方、聞役などに組織されたキリシタンの秘密組織に属して信仰を守っていた。
一番崩れは1790(寛政2)年に、二番崩れは1842(天保13)年に、三番崩れは1856(安政3)年に、弾圧が繰り返された。
四番崩れは浦上村3000余人を総流罪とするという史上に残る弾圧のうちでは最大級であった。
事件は幕末の1865(元治2)年、建てられて間もないフランス寺(大浦天主堂)を訪れた浦上のクララてるなど10数人の人々の告白にはじまった。この告白によって、二世紀半もの長い間、きびしい弾圧に耐えた浦上の潜伏キリシタンの存在が確認された。そして、この信徒発見のニュースは、プチジャン神父によってただちにローマ法王に報告され、全世界に報道された。
宣教師の説得に勇気を得た信者たちは、ある葬儀の際お坊さんをあげることを断った。寺との縁を切ると言い出したキリシタンは本原郷四百戸、家野郷百戸、中野郷二百戸と村人全員だった。公然とキリシタンであることを明らかにしたキリシタンの捕縛も時間の問題となり四箇所の秘密聖堂も摘発され六十八人が捕らえられ桜町の牢屋に入れられた。駿河問いという酷い拷問を受け転び(改宗)を強いられた。その間死人が出て次々と牢屋に入れ数人を残して転んでしまった。高木仙右衛門は彼らを勇気付け転んだ皆を改心戻しに導いた。改心戻しをした浦上のキリシタンは殉教を覚悟し代官の改宗の厳命に「死刑にされてもかまいません」と強く否定した。決心の固いキリシタンを知った代官は処分を明治政府にひきつがれ流罪となり萩、津和野、福山に流された。この流刑地での苦難の生活は、「旅」とよばれた。
明治6年3月はげしい外国からの抗議に屈服した明治政府が処分を撤回するまで続いた。4年間の旅の間、信者たちは肉親ともバラバラに離され、婦人子供まで土地開拓や炭坑などの重労働にかり立てられ、飢えと改宗をせまるはげしい拷問の言語に絶する悲惨な生活を送ったが、大多数の信者は信仰を守りぬいた。
釈放された信者たちは、なつかしい浦上の地に帰り、教会が建てられるなどして浦上はふたたび信仰の地となったが、この事件による犠牲となった約5分の1の信者は流刑地で死亡した。
旅から戻った高木仙右衛門、守山甚三郎は天寿を全うしこの旅の記録を残した。

聖母の騎士の高校で毎年聖劇が行われる。高校2年生の時、「津和野」が劇のタイトル、私の役は守山甚三郎、当劇の主役であった。この役を任され津和野の地にいつかは行きたいと心に留めていた。今回、田平出身のシスターに後押しされ2連休を利用して向かうことにした。
私の旅の1日目の午前中は浦上教会でコンタツを唱えた。浦上の子孫として先祖たちに向かって「いってきます」と気持ちを込めて。




津和野に流された信者は乙女峠という場所に連れて来られた。ここは室町時代に津和野城主の娘が非業の死を遂げ、その祟りを恐れてこの地に寺を建て乙女権現として祀っていた。いつしかこの山を乙女山と呼ばれるようになり地元の人もあまり寄り付かない場所であった。地形的に峠ではないが永井博士の絶筆である『乙女 峠』により呼ばれるようになった。 1868(明治元)年廃寺となったこの場所を長崎浦上の異教徒御預所となった。
津和野駅の裏にあるお墓を通って山に向かうと乙女峠参道の看板看板が見えてくる。川のせせらぎを聞きながら手作りの道を登っていくと聖堂がみえてくる。

津和野に流刑されたキリシタンで中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚書の中に書いている。
11月末雪が降り積もる中取調べが始まった。津和野は決して大きな藩ではなかったが学問が盛んで独自に津和野本学なるものがあり教導により改宗させるという自信があった。しかし殉教する覚悟のある津和野に流されたキリシタンだけに改宗することなく津和野藩の教導は失敗に終わり、改宗のためには多少の迫害は必要とされるということに至った。
調べ所の先に四、五間の大きさの池があり厚い氷が張っており調べ役の武士に真裸で突き落とされ改宗を強いられた。「仙右衛門、甚三郎、デウスが見ゆるか。どうじゃ」とあざけ笑い足のつかない池の中のキリシタンに水を掛け、息が切れそうになった時に引き上げられた。十分な食事は与えらあれず、少ない食事の中から少しずつ米粒を張り合わせて衣服を作り寒さを凌いだ。それでも寒さを凌げるわけでもなく就寝の時は背中合わせに眠り腹部が寒くなるとお腹を合わせて眠りそれを繰り返した。身体的にも精神的に迫害を与え改宗するキリシタンがでてきた。改宗された者は法心庵に連れて行かれ働かされキリシタン達と引離された。しかし改宗されたキリシタン達は夜中に乙女峠に忍び込み食料など差し入れ励まし、身体的にも精神的にも援助を行った。

改宗しないキリシタン達は三尺牢という小さな檻に押し込められた。三尺牢は1メートル弱四方の檻で壁には厚さ3センチ強の板が釘つけられ手足を伸ばすことも出来ず立つ事もできない。一方のみ3センチ間隔で柱が打ってあり窒息できないようになっており天井から物相を入れるだけの穴が開けられている。法心庵にも同じ物が置かれ改宗者達にキリシタンに戻らせない一種の誘いを入れた。津和野藩の説得方の敗北は目的達成のために手段を選ばないところまで至った。
拷問を受け三尺牢に投げ込まれて二十日程経ち、体はすっかり衰弱され、これが最後であると覚悟をした。最初に三尺牢に投げ込まれた和三郎は仙右衛門に励まされたが昇天の日を待ち殉教の栄光得た。和三郎の死後、次に三尺牢に投げ込まれたのは安太郎であった。甚三郎や仙右衛門は言葉を尽くして安太郎を慰めた。

仙右衛門「最後の間際に唯一人でさぞ寂しでせう」
安太郎 「いや、少しも寂しくもありません。毎夜四ツ時から夜明けまで、綺麗な十七八歳位の、青い着物を、青い布をかぶり、恰度聖マリア様の御絵に見えるような御婦人が、頭の上に御顕われくださいます。優しい女の声で、非常に善い勧告をして慰めてくださるのです。しかし此処事は私の生きて居る間は誰にも話して下さるなよ。」
(仙右衛門覚書、甚三郎手帳から抜粋)
ヨハネ・バプチスタ安太郎は明治二年一月二十二日30歳で昇天した。

中心人物であった甚三郎と仙右衛門が改宗すれば全員が改宗すると考え、仙右衛門は病気の為全快次第出頭することとし甚三郎を中心的に説得と迫害を加えることとなった。御用場に向うの氷の張り詰めた池に、裸にして突き落とされ全くの氷責めを受けた。それでも決して甚三郎は改宗はしなかった。次に津和野藩は甚三郎の弟である祐次郎を迫害することで甚三郎を追い込んだ。祐次郎は裸にされ大黒柱に縛りつけられ朝から晩まで力任せにこれを鞭打つやら、鼻・耳に鞭を突っ込んでえぐるなど厳しい迫害の中衰弱して昇天した。迫害はその残酷さが絶頂に達していった。祐次郎は衰弱する間際、姉のマツにこう言った。
「八日目には、もうとても耐えきれぬ。仕方がないと思っている時、屋根の上をみると、一羽の雀が米粒を含んで来て小雀の口に入れてやる。それを見て私はすぐゼズス様・聖マリア様のことを思い出しました。私が責められるのを天からご覧になっては、より以上に可愛く思ってくださらぬ筈がない。このままに死んだら天堂へ行って、天主様から厚いご褒美をいただくことも出来る。こう思うと勇気が以前に百倍して、何の苦もなしに十四日を堪え忍ぶことが出来ました。」
「雨が降る日にはずぶ濡れになり、体は震えだすので、罪を後悔しつつ死を俟っていました。晴天の夜、月や星が見える時は、天国は月や星の上にあるというから、私もきっとその月星の上に登ることが出来ると思って我慢しました。」

1873年(明治6年)2月24日、切支丹禁制の高札が撤去された。その背景には明治4年右大臣の岩倉具視が全権大使となり、木戸孝允や大久保利通らを従えて欧米列国を歴訪した時、アメリカ政府が日本に対する申し出の中に切支丹の禁制の高札を不当とするという講義があり、新政府はこれを認め切支丹の禁制の高札は撤去される事となった。もともと禁制の法的根拠はなく、この撤去によってキリシタンを投獄する理由は失われ、追放、帰村に至った。
遂に乙女峠のキリシタン達は、何物にも替え難い信仰の自由という、貴重な精神的価値を守り抜いて、5月9日に津和野を発って、長崎への帰国の途を登ることができた。残虐極まる拷問に耐えた不改心者たちは42名、殉教の栄光者32名の骨は千人塚に集められ津和野の地に眠っている。こうして旅は終わりを迎えた。
参考文献
片岡弥吉『長崎のキリシタン』 中田武次郎『キリシタンのルーツ』 沖本常吉『乙女峠とキリシタン』